2008年12月08日

11月3日

4回にわたり行われた劇場塾も本日が最終日、「岸田國士の短編戯曲を読み解いてみよう」第2回です。
今日も永山さんの講座になります。

まず、前回のお話の続きから。
岸田國士の戯曲は基本が「コント」であると永山さんは考えています。
「コント」とは元々フランス語で、この「コント」と似た意味の言葉を英語に当てはめると「スケッチ」になるそうです。
「スケッチ」とはある風景を切り取って描写するものということです。
岸田國士の書いたものを「コント」と呼ぶのは彼が人間のいる風景を描写しているからだそうです。

ここで永山さんが前回配られた脚本「驟雨(しゅうう)」と「命を弄ぶ男ふたり」を読んだ感想を参加者の皆さんへ尋ねられました。
どちらの作品にも共通する感想としては
・面白い
・情景を自然に描写しているようで実は違う。
・簡単に読めたが内容は重い。
・会話のテンポが良く読みやすいが、その中にも印象の強いポイントがある。
・両方の作品とも形としては似ている。
「驟雨」に関しては
・この戯曲を基にした映画を見たことがあるので情景がすぐに頭に浮かんだ。
・ファンタジー、気持ちが開放されるが現実も見える。
・言葉は古風だが本質は今でも通じる。
「命を弄ぶ〜」に関しては
・少し途中で合わなくなった。
・死ぬのが怖いというリアルさがある。
・逆転する関係が面白い。
・いろいろリアルで印象が強い。
といった声がありました。

「驟雨」は新婚旅行先から突然帰ってきた妹に姉夫婦が巻き込まれる話。
「命を弄ぶ〜」は列車に飛び込んで死のうとする男ふたりが出会う話。
どちらの話も「コント」になりやすい設定です。
そこに何を描いていくか、が岸田國士の戯曲だと言う事です。
そう考えると彼の書く作品はただの「いい話」ではなくなります。
永山さんの考えでは、岸田國士はこのような戯曲を書くときはきっと笑っているだろうと言う事です。
喜劇的に書く場合、登場人物と観客との距離はあればあるほど面白くなり、逆に登場人物に観客が寄り添ってしまうと感情移入してしまい面白さがなくなったりしてしまうそうです。
そこで今の話を踏まえてこの作品を読んでいくことになりました。
ただ黙って読むよりさらに戯曲を読み込んでいく意味を込めてト書きも含めて音読します。

画像:11月3日戯曲講座4回目
音読中しています。

音読することで戯曲の特徴をより捉えやすくなります。
ひとつにト書きもすべて読むことで、黙読では飛ばされがちな「長い沈黙」や「間」がそのままセリフの中に入ってきて間の入るタイミングによってセリフの意味や状況が変わって聞こえてきます。
このことについて永山さんは、岸田國士が戯曲を「語られる言葉=話言葉」として常に話す言葉をイメージしながら書かれているからだと考えています。
戯曲は小説やエッセイで見られる「書き言葉」ではなく、「話し言葉」によって書かれます。
「話し言葉」はコミュニケーションのための言葉で人と話すときに使う言葉ですが、実は会話における相手に伝わる要素「言葉・音・表情」の中で、もっとも重要度が高いのが「表情」となり、言葉はわずか7%しか会話においては重要度が無いそうです。
岸田國士はその話し言葉の面白さ、音を意識している書き方にこだわって書いているそうです。
例えば「命を弄ぶ〜」では同じ言い回しを何度も言ったり、同じ言葉の音の違いを使ったりして笑わせようとするところが見えてきます。
また無駄をそぎ落として要点をまとめる「書き言葉」と違い、間や繰り返しをつけたり言いかけてやめたりすることが出来る「話言葉」では気持ちの揺らぎを言葉に表すことで、言葉にない情景や気持ちを観客の創造に委ね舞台の中へ観客を参加させることが出来ます。
例を出すと「驟雨」に新婚早々実家へ帰ろうとする妹のセリフで
「だから、あたし、帰るのよ、うちへ・・・」
というのがありますが、これを「書き言葉」で表すと
「だからあたし家へ帰るのよ」
となります。
息継ぎをどこで取るかで音や意味の違いが出てくるので、その部分を語られる言葉へのこだわりとして自覚的に書いているそうです。
永山さんご自身も戯曲を書くときには、セリフを言う時の役者の息継ぎに気を使うそうです。

画像:11月3日戯曲講座4回目
どこで区切るかによって、印象は変わります。

また岸田國士の戯曲では仮想や空想のシーンが良く出てきます。
空想や仮想のシーンを入れることによって現実を際立たせる狙いがあります。
この空想や仮想のシーンは古典主義的な戯曲の構造に見られます。
「古典主義」は古代ギリシャ劇における劇構造で舞台上で時間・場所が変わらない事が一つの特徴になっています。これに対するのが「非古典主義」で代表的な劇作家にシェイクスピアが挙げられ、舞台上の時間や空間が変わっていく劇構造が特徴的です。この舞台上で時間・空間が変化しない古典主義的な作品でも仮想や空想のシーンを使うことによって空間に広がりが出て、そのことでより現実が照らし出されるといった効果があります。

これから戯曲を書く人が、岸田國士の戯曲を読み解くことによって得られること、学び取ることについても永山さんは話されました。
まず「劇的対話」ということをあげられました。
岸田國士自身が「舞台の言葉」という中で書かれていますが、語られる言葉つまり話し言葉による対話が舞台上で行われることを特に意識するということです。
永山さん自身がセリフを書くときには「詩」を書くようにということで「劇的対話」を考えているそうです。
例えば
「空が青く澄み渡り美しい」
この、空の美しさを表現する書き方を劇的に書く事を意識して書くと
「青があふれた空に、息を呑む」
といった表現になってくるそうです。
このように文体を変え、同じ事を語っていても音にするとまったく印象が違ってくる事を「劇的な対話」と岸田國士は呼んでいました。
そういった劇的対話が書けるかどうかが劇作家としてのポイントになるそうです。
ここで実践として岸田國士の文章にも例として載っている二人の男の会話を劇的対話に書き直すことになりました。
会話は
「挨拶をして、雨が降っていることを説明して、お互いの家族の近況を話す」
という内容です。
書いた後は二人組になって読み合わせをしてみました。
みなさんそれぞれの言葉で「雨が降る」や「元気である」などの説明をうまく劇的な会話にされていました。
説明のためのセリフではなく、自然な会話によって状況が説明されるようにならなければならないという事でした。
これには現実を整理していくことが大切で日常会話でも呼吸が必要になるようです。
「命を弄ぶ〜」にて手紙が出てくるのですが、その手紙も「劇的」を意識した手紙になっています。
それは観客が実際に手紙を手にとって読むからではなく、せりふとして音で聞くための変更がなされているそうです。
対話・会話を現実のそのままに写し取るわけではなく、それぞれの演劇観によって差異は出るものの変更を加えていくという事が大切だそうです。
「Yes」という言葉にも「はい」「そうだね」などの可能性は無数にあり、その可能性を生かすことで一見ただ話をしているだけに見える「母と娘」「夫と妻」でもその会話が劇的対話になり、演劇の場面として成立させているそうです。

岸田國士は喜劇的に状況を見るタイプの作家で、「動きがない、退屈」=「静的な、静かな情景」ではなく作家が世界をどう見ているかの視点で分けられるといわれています。
喜劇体質な作家としては岸田國士、別役実氏が挙げられて、悲劇体質な作家としては木下順二氏などが挙げられるそうです。
喜劇の本質というのは状況を客観的に離れて見ることが出来ることであり、チェーホフもこの視点を持っていたと言われています。
この状況を離れた視点から見る手法はギリシャ劇から始まる古典主義には必ず見られます。
静的な情景の中にどれだけドラマの視点を持って状況を見られるかということになるそうです。
この視点を「不条理」と言い換えることも出来ます。
不条理は「人の生死」や「恋」などの人の力ではどうする事も出来ない答えの出せない部分とも言えますし、現代ではなかなか忘れられがちなことだとも言えるそうです。
一見静かに見える場面でも「不条理」の視点で見るとドラマがあることもあるそうです。
物事をこのように捉えて戯曲を書いたのは日本の劇作家では岸田國士から始まりその後別役実氏から太田省吾氏、岩松了氏、平田オリザ氏らへと続く系譜になったということです。
岸田國士の戯曲は「古典主義的」であると言われています。「古典主義的」とは「ある時間と空間を切り取ってそこに人間を配置する」戯曲となります。
これを永山さんは「写真」と同じようだと考えています。
ただ、「写真」とは明確な違いがあるとも話されます。
ためしにということで、参加者の方を一人、前に座らせてみんなで1分間見つめてみます。
「写真」を一分見つめることと「人」を一分見つめることにどう違いがあるでしょうか?
見つめる人・見つめられる人によって感想はさまざまですが、写真を見るよりも実際の人を見つめることの方が実際目の前にいる人の切り取る前までの時間の重み、受けてきた不条理の数を見つめることになるので印象が変わってくるように感じました。
そのように見つめることを「ドラマの眼」と永山さんは表現されました。
出来事をドラマの眼で見ることが出来るか何を劇的に思うかが大事になってくるそうです。
戯曲の中で起きる事件というのは、決してドラマチックなだけではないということだそうです。

岸田國士の不条理には不条理であるからこそ、そこから開放されるための「自由」という意思があると言われます。
彼の最初の戯曲は日本人とフランス人の対話劇で最初にフランス語で書かれたものを後に日本語訳にしたそうです。
その後は3作目に「軌動(レール)」として黙劇、セリフのない芝居を書いています。
このように岸田國士の戯曲は実験精神にあふれており自由でありたいとする意思と、80年近く前にすでに現代にも通じる演劇の可能性を持っていました。
岸田國士には常にある形(スタイル)に安住せず、より自由を希求していくという意思がありました。
彼は短篇を多く残しています。単純に比較は出来ませんが、上演時間が短いから広がりが無いという事は言えないと永山さんは話されました。

「劇的対話」
「ドラマの眼」
「自由であること」
これらの事を岸田國士の戯曲から学び取り、自分たちが戯曲を書くときの何らかの手がかりにして欲しい。
最後に永山さんよりこう締めくくりの言葉をいただき、今回の講座は終了となりました。

Posted by mt_master at 10:26

2008年11月18日

10月3日(金)

戯曲を読み解く講座第3回です。。

今日と第4回の講師は宮崎の「劇団こふく劇場」主宰の永山智行さんです。
今回講座のテーマに選ばれたのは「岸田國士」
戯曲賞に名前を冠する劇作家です。
ここで「岸田國士の脚本を実際に読んだり、上演されたものを見たり演出や出演したことのある人は?」と質問がありました。
講座に出席の方でも2名のみ手が挙がりました。
岸田國士はとても有名な劇作家ですが、かなり昔の劇作家だけに現在手に入る出版物がほとんど無くなかなか読む機会がありません。しかし、新国立劇場をはじめ作品は現代でも上演されています。
永山さん自身の岸田國士との出会いは大学の頃友人が「葉桜」を上演するということで初めて読んだそうです。
岸田國士の戯曲は上演したことはまだないそうですが、劇団の稽古では使っているそうです。
1890年明治23年に生まれた岸田國士の劇作家としての活動期間は意外と短く34歳から約10年ほどだそうです。この10年短編を中心に60〜70本ほど書いています。
昭和に入ると文学座を創立しその後彼の活動は演出や評論、小説に移っていったそうです。
戯曲そのものは大正末期から昭和初期にかけて書かれた物が多いようですが、現在上演しても古臭くないモダンさがあると先生は言われます。
今回の講座では彼の戯曲の持つ普遍性を探っていけたらと言われました。

画像:10月3日戯曲講座3回目
横にあるのは岸田國士全集の一部です。

ここで前回の講座終了後に課題として配られた台本4篇が登場します。
今日は講座の出席者で2班に分かれ、それぞれこの台本2編を取り出して「岸田國士戯曲賞」最終選考会を行うことになりました。
選考される戯曲は以下のようになります。
A班:「葉桜(岸田國士作)」「混じりあうこと、消えること(前田司郎作)」
B班:「紙風船(岸田國士作)」「少女仮面(唐十郎作)」

画像:10月3日戯曲講座3回目
それぞれ真剣に選考中です。

10分程度各自でどちらが良いか考える時間が与えられた後、A班より選考会が始まりました。
「葉桜」に対する意見
・ 面白いが時代背景がつかめない
・ タイトルが良い。核心に触れそうで触れない、現代には無い清らかさがある。
母子のうそつき加減が良い。
・ 岸田國士が岸田國士戯曲賞を取れなかったらこの賞ってなんなんだ。
・ 好みからするとこちらだが時代的に古めかしい、今の生活形態が変わっていて広がりが無い。現代はもっと女性が強くなってきている。
・ 古めかしい言葉や考え方とかが逆に読んでいて面白い。登場人物は二人しかいないが背景で起こっていることを想像していくことが面白い。
・ 小説なら母娘の会話は面白いが上演するとどうだろうか。母親の感覚が現代と比べても普遍。
・ 物語の裏を想像するとおもしろい。
・ この(作品に登場する)母親が嫌いだからいやだ。
・ 古くて新しい。

「混じりあうこと、消えること」に対する意見
・ 家族の会話が出来ない人たちがもがいている感じがリアルで共感できる。
・ 個人的に面白いと思うので二作品を比べるとこちらの方が良い。岸田國士は違う賞でも良いのでは。
・ 公園が水の中という設定が面白い。男女、親子、生きる死ぬといった問題がタイトルのようにボーダレスになっている。感覚鋭い作品。
・ 話の設定や内容が飛びすぎていて整理がつかない。
・ 自分の感覚で面白いと思うのはこちら。舞台上でやってみても面白そうだと思った。
・ 演出家によっては観客がまったく(舞台に)ついていけない可能性もある。
・ 「団欒」って言葉は古くないでしょうか?
・ 「団欒」はいまこそ必要
・ 不条理劇のようだが、脚本の形態として不条理は新しくない。
・ 設定が受け止められない、受け止められる人には面白いだろう。

最初に自分たちがどちらを支持するのか一人ずつ述べますが、そのときは「混じりあうこと〜」が優勢でした。
しかし、今回は「討論すること」が目的なのでその後は多数決ではなく、自分たちで話し合いの上どちらかの作品に賞を決めることになっています。
それぞれ受け止め方が違いますので当然評価も分かれます。
審査基準をどこに置くかについても難しいです。
新しさがあることが選考基準なのか。
面白い、というだけで賞を与えても良いのか。
そういった意見も出てきました。

画像:10月3日戯曲講座3回目
熱い議論が続きます。

お互い譲らずすこし膠着する場面も見られましたが、白熱した議論は「葉桜」の作者である岸田國士が賞をもらわないのはやはりおかしいという意見となりA班の結論としては「葉桜」が受賞となりました。

ここで少し休憩を挟み、引き続きB班のによる選考会です。
「紙風船」に対する意見
・ 空想と現実の繰り返し、夫婦の単純なありきたりな関係しか描いていない。
・ 夫と妻の日曜日の間が持たないままの会話に子供がいない夫と妻の関係性が見える。
想像の旅のシーンで読んでいるだけで風景が見える。
・ リズミカルな安定感、安心感が見られるが、この人に賞をあげてもこれ以上の境地にはたどり着きにくいのでは。
・ 二人の状況がとても良くわかる。別に仲が悪い夫婦関係を書いているわけではない。
・ この夫婦はこの先もあまり変わりがないことが読める。
・ 斬新さは無いが技術的に優れている。空想の作り物のなかから真実が見えることがある。現実的なものは強い。
・ 自分の生活の中にある風景をわざわざ劇場に足を運んでまで見たいのか。
・ シンプルなほうが色をつけやすい。
・ 戯曲の中に話が収まってしまう。
・ 茶の間劇。限られた空間の狭い範囲でしか共感できない。
・ 初めて読んだ時に古いと思ったが今は違う。
・ 自分の生活の中であるものを読みたい、傍にある物語として改めて見る。
「少女仮面」に対する意見
・ きわめて非現実的。作家の頭の中が見てみたい、構成として空想と非現実の内に過去とか観念的なものが入っていて見るのに強い印象を与える。(実際に舞台で)見る戯曲として優れている。
・ 話の内容についていけず読みはしたけれど頭の中に「?」しか残っていない。
・ 喫茶店は地下にある設定で、実際アンダーグラウンドな人たちも時代が変わっていく時に地下にもぐってしまっている。「変わりたくない」という意思の表れか。仮面をつけたり性別を偽ったりするのも変わりたくないという人の内側の話の気がする。
・ 物質に対して記憶が濃密に残っていて、発展性が感じられる。
・ ほかのテキストは読めたけどこれは無理、とても苦痛でした。特に水道の男の件、現実的な名前と空想のところがきつい。
・ 時代性が色濃く、今読んでもらいたいと思う。
・ 社会性がある。逆転する関係性が面白い。
・ 部分部分教育的に向いてない。
・ 疑問符が頭の中にたくさん浮かんで何が言いたいかそれを考えると「また見たい!」と思う。
・ キャラクターに個性があり、いろんな要素がある。
・ 若い人と年配の人、男と女、対照的な組み合わせが多く面白い。
・ 要素がたくさんありすぎて、逆に引いていきたい。
「少女仮面」は4作品のなかで一番個性が強く、そのことでやはり支持するかしないか意見がはっきりと分かれました。
「紙風船」も夫婦の関係性をどの様に捉えるかによって評価が分かれているように感じました。

画像:10月3日戯曲講座3回目
こちらも熱い議論となりました。

B班は選考基準よりも「少女仮面」と「紙風船」があまりに違う戯曲だったのでそのことについての議論が中心だったように感じました。
最終的には強い個性が印象的だった「少女仮面」が選出となりました。

それぞれの選考が終わったので永山さんの講義に戻りました。
選考というのは価値観の違いもあるので大変難しいそうです。
実際に「少女仮面」が岸田戯曲賞を取ったとき(昭和45年)もかなり審査員の論議を呼び、演劇界の事件になったともいわれています。
ただそれ以降岸田國士戯曲賞の選考作品に対して、色々な広がりが出てきたとも言われます。

岸田國士は決して「いい話」を書こうとしていたわけではなく、基本的に彼が書いていたのは「コント」なのではないだろうか、というのが永山さんの見方だそうです。
彼の視点は対象を突き放し見ており特に何かのテーマを訴えていたわけでもありません。
何も終わっていない何も解決していないただ日常が続いていく。
どれだけ空想しても今の現実は変わらない。
その何も終わらず、答えが出るわけでもなく気持ちが動くわけでもない、それでも生きていかなければいけない日常を書いている。
そこで登場人物と同じ気持ちだと笑えなくなりますが、離れて見ることで笑えるようになるのが岸田國士の戯曲です。
だから共感する視点で読んでしまうと話がまとまってしまうだけになってしまうのではと永山さんは言われます。
「コント」なので上演時間が短い短編が多いのだそうです。
何も起こらない中を喜劇的に見るのは前回のチェーホフもそうでしたが、劇的と呼ばれてない話を取り上げた日本では最初の劇作家であるそうです。
物事を喜劇的に見る体質を持っていたのが岸田國士だそうですが、そのあたりの詳しい話は次回ということで今回の講座は終了となりました。

Posted by mt_master at 14:22