原点は、少林拳への出会いと驚き
――『sutra』の演出・振付をされているのがシディ・ラルビ・シェルカウイさんですが、まず森山さんとラルビさんの出会い、関係からお聞かせいただけますか。
僕は08年に『RENT』という舞台に出演しましたが、それをラルビが観に来ていて、楽屋で会ったのが最初の出会いですね。その時点で、12年に彼が演出・振付をする『TeZukA』に出演することが決まっていたので、そこから少しずつワークショップを重ねていきました。
――そうした出会いから、お仕事をされてみて、どんな人だと思われましたか。
この『sutra』に関してもそうなんですが、彼はもともとダンスからキャリアを始めている人なので、身体に対してのイメージはすごくあるんですが、独自の舞台美術もあいまって、非常に建築的にものを作っていく感覚があります。高低や配置による空間の埋め方が、彼の中に美学として存在しているんです。
それは『プルートゥ』(15年)のときにも顕著でしたね。たとえば僕の演じるアトムが下にいたり、天馬博士が上にいたりすることにも意味があって、上下左右の位置関係で、そこで何が起こっているのかを現象として見せる。だから芝居を見せる、ダンスを見せるというだけではなくて、空間を数学的に捉えて、そこに作品を構築していくところがある。そういう空間に対する考え方がすごく面白いと思います。
――シェルカウイさんとの仕事の中で、「演じ手から提案してもいいんだ」という意識が芽生えたという話を、どこかでおっしゃっていたと記憶していますが。
ラルビは彼自身が踊って振りをつけるわけではなく、ダンサーたちを呼んで「こういうコンセプトで、こういうダンスのフレーズを作りたいから、ちょっとみんなで考えてほしい。ソロならソロ、デュオならデュオ、トリオならトリオ、全員ならそういうもので」と言うんですね。そして、いいと思ったものをピックアップして、みんなで踊らせてみたり「これは面白いから、ちょっと彼にやらせてみよう」と踊りと人をパズリングしてみるとか、そういうやり方でものを作っていく。だからダンサーもそこでクリエイトができなければ、話にならない。
――『sutra』にも、そういう作り方を感じますか。
『sutra』に関しては非常にシンプルだと思います。少林寺の武僧とシンプルな木の箱を組み立てて作っていっている。僕はラルビから直接話を聞いていませんので、一つひとつの細かな意味合いまではわかりませんけれど、おそらく仏教的なことについても調べているでしょうし、木の箱の配置や動き、流れにも意味を込めて、なぜそうするのかという理論を構築していただろうと思います。
ヨーロッパの人たちはコレオグラフ(振付)もそうですが、すべてのことに対して理屈を通すという考えがとても強い。感覚的ではないんですね。もちろん、構築した理屈がすべて観客に伝わる必要はないけれど、「どうしてあの場面では、ああした配置になったんだろう」ということを想像しながら、観客が作品と会話していくのは、作り手と観客のお互いにとって、良い作用を生むと思います。想像力が膨らんでいくような作り方をしていると思いますね。
――『sutra』が『TeZukA』や『プルートゥ』と比べてシンプルという点から、なにか違いをお感じになる部分はありますか。
シンプルとは言いましたけど、箱の配置や武僧のいる位置、彼らの居方や動線も含め、ただの少林拳のショーでは終わっていない。だから僕としては、違いはあまり感じませんね。それがラルビのいいところでもあるし、彼の世界観でもあるんです。
『sutra』は08年に初演された作品ですが、その特徴的な部分はずっと変わらずにあるというか、美術と身体との関係性やパズリングに関しても、一貫している感じはあります。
この作品にはテキストはあまり入ってこないですし、もっとシンプルに少林寺の武僧の身体をマスゲーム的に使うところや、木の箱を平台にしたり倒してみたり、配置を転換していくことで、さまざまな構図を生み出していくんです。ラルビの中ではもしかしたら、そこに曼荼羅のイメージがあるのかもしれないし、棺桶のイメージがあるのかもしれない。もしかしたら観ている僕らは、キョンシーだと思ってしまうかもしれない(笑)。
"ツタ植物"のような人
――森山さんご自身、この作品を観てどういう作品だと感じられましたか。
『sutra』は、メッセージを人に与えようとする作品ではないというか......。ラルビの他の作品には、そういうイメージで作られたものもあるし、『sutra』にもメッセージ性がまったくないわけではないと思うんですが、この作品は、面白いものと出会えた純粋な喜びに、満ちあふれている作品だと思う。だからあまり難しいことは考えずに観ることができると思います。
僕らは無自覚のうちにアジア文化を生活の中に受け入れているけど、ラルビはもっと系統立てて、情報としてちゃんと理解しようとするから、僕らよりも精通していることが多いんです。
よく仕事を一緒にしている「鼓童」というグループにいる、吉井盛悟というミュージシャンがよく言うんですが、たとえば般若心経をクリエイションで使うことの怖さって、あるじゃないですか。もうそれ自体に意味があるから。だけど彼は般若心経の音がすごく好きで、そこにある言葉の意味が好きで、それにはクリエイションの中で動きや間がつなげる力がある、というようなことを言うんです。だけど、それはエキゾチズムと紙一重というか、創作においては危険だったりもするんですよね。「日本文化が大好きです」というだけで終わってしまうきらいがある。でもラルビは、そのあたりのバランス感覚がとても優れている気がします。
――『TeZukA』や『プルートゥ』を拝見しても、原作への尊敬の念を持ちながら、組み立てを変えているところも感じられます。
付け焼き刃の知識ではないな、という感じはしますね。あと『TeZukA』に関して面白かったのは、手塚さんはスターがいろいろな芝居に出るように、ある漫画の人気キャラクターが別の漫画にも登場するという、スターシステムという手法を使っていて。それをラルビは輪廻転生だと捉えたんですね。ある漫画で死ぬなり、人生を完結させた者が、別の漫画のキャラクターとして生まれ変わるという感覚。『火の鳥』などはそれが顕著ですけど、そういう風に彼の中では、漫画表現とアジア的な発想がバランスよく並んでいるんです。
――少林寺のお二方とは『TeZukA』でも共演をされてますが、共演してみて感じたことは。
もうすごい、ということですね(笑)。彼らは少林拳の修行をずっと続けてきた人たちですけど、外の文化に対して興味があるし、渇望している部分もある。そういう貪欲さみたいなものは、見ていて面白かったですね。体の使い方も違いますし。
――今回の日本公演では、シェルカウイさんがステージに立たれますが、彼のパフォーマーとしての魅力は?
これは演出とも絡んでくる話なんですけど、僕は彼をアイヴィー、ツタ植物のような人だと思っているんです。出会ったものに対して、すごくナチュラルにオーガニックに絡んでいき、絡むことで対象をよりみずみずしいものに仕立てあげる。踊り手としても、そういうイメージがあります。誰かとやることによって相手をより魅力的に見せ、彼自身も美しく見える。そういう居方のダンサーという印象なんです。そういう意味では自分自身を......もちろん音楽もセットもダンサーもテキストも、すべての存在がそうなんですけど,自分という存在を一つのストラクチャーを作るための素材として考えている。
いわゆるダンサーには、自分のファッションや世界観を常に放射する人も多いし、そこには絶対的に美しさや強さがあるんですけど、ラルビは自分のことを、作品世界を構成する点の一つとして考えているような気がする。彼のダンスを見ているといつもそう思います。
――この作品で、ラルビさんの作品に初めて触れる方々もいらっしゃると思いますが、そういう出会いに対する森山さんが期待することを教えていただけますか。
この作品が成功しているのは、まず、少林拳の身体的なパフォーマンスが圧倒的ということなんですよね。でも、ただ人が踊るのを観るだけの作品は、抽象的なことになるんです。
だけど、先ほどお話ししたようにラルビの作品には、絶対に筋を通している部分があるので、ただパフォーマンスを観ている、あるいはただ抽象的なものを観ている、という感じるだけで終わる作品にはならないと思います。仮にストーリーがわからなかったとしても、パフォーマンスとしての完成度は非常に高いのですから。少林拳が新しい形の表現になった衝撃を感じるためだけでも、観る価値があると思います。
いよいよ本日「sutra(スートラ)」東京公演が開幕!東京・愛知と経て、10/8(土)には遂に北九州へ・・・と期待が高まる中、昨日東京にて振付・演出、そして日本ツアー版では舞台にも立つシディ・ラルビ・シェルカウイさん、出演する嵩山少林寺の武僧達のリーダー、ファン・ジャハオさんのインタビュー会見が行われました。
―少林武僧の魅力、舞台に参加することの魅力とは?
シェルカウイ「武僧たちは肉体の動きを通じて、自身の精神を追求している。そこに振付家としてダンスを追求するときの感覚と似たものを感じました。また嵩山少林寺を訪れた際には、彼らがいつも一つのコミュニティとして共存していることに感銘を受けましたね。私たちダンサーは、昼間にスタジオでレッスンを共にしても夜には個人の生活があります。ですが武僧たちは、常に一緒に規律の中で生活しているのです」
ジャハオ「この作品からは新しさを感じています。少林拳の伝統と西洋のダンスのコラボレートに立ち会うということは新鮮な体験ですし、ここから新しい文化が生まれたと感じます。この作品を通じて、さらに多くの人たちに少林拳を知っていただけたらうれしいですね」
―クリエーション過程について
シェルカウイ「この作品は、従来とは違う角度から嵩山少林寺の武僧を見るところから始まりました。最初は4人くらいの武僧とワークショップを始め、それが8人になり、さらに子供の武僧が入ることで、大人の武僧を含め、自由にクリエイションできる空気になったのですね。私はそこへオープンな気持ちで入っていき、彼らの日々の生活、動きからインスピレーションを受けて生まれたのが『スートラ』です。この作品では21世紀を生きている武僧たちを描きたいと思いましたし、少林拳をコンテンポラリーな形で表現することも可能だと考えました」
ジャハオ「普段の修行では退屈を感じることもありますが、この舞台には、ゲーム感覚で演じる部分もあるので非常に楽しいですね。もちろん普段の修行では箱を使うことはないですし、慣れないうちは箱にぶつかってしまうなど、戸惑う点も多々ありました。でも、シェルカウイさんはいつも私たちの意見をちゃんと聞いてくださいますし、なにかあればすぐ相談させていただける。だから今はまったく問題はありません」
(ジャハオのコメントに登場した箱。これはシェルカウイにとって重要な意味を持つセットである)
シェルカウイ「私は箱の中を、人が生きているときに与えられている個人的な空間として捉えています。そして、その一つひとつを重ねることで、壁や階段、寺院などが生まれていく。このセットは友人の美術家アントニー・ゴームリーによるものですが、観客が自分自身の想像力を駆使できる余白を残しているのが素晴らしいと思います」
―最後に、『スートラ』に込められたメッセージとは?
シェルカウイ「死の後にはまた生があるということ。輪廻ですね。この作品をご覧いただくと、すべてが壊れ、終焉を迎えたように思える瞬間から、また新たなものが構築されていきます。それは生と死というテーマに繋がっていき、だから物語は終わることがないのです。是非、日本のみなさんにこの公演を楽しんでいただければと思います」
いよいよ明日から上演、女性の眼と句で綴る演劇「風、騒グ。」。今回はその中から鵜飼秋子さん・内山ナオミさん・内田ゆみさんのさかな公団の3人にインタビューを実施!ゆる~くて赤裸々な(!?)女子トークをしていただきました!せっかくなので、稽古風景の写真と合わせて皆さんにお届けしますー!(※以下:(鵜)=鵜飼 (ナ)=内山 (ゆ)=内田 (広)=広報スタッフ)
▼Q.内田ゆみさんが本公演8年ぶりですが経緯を教えてください。
(鵜) ゆみちゃんが連絡をくれたんですよ。某劇団公演に出ようと思うって。じゃあゆみちゃんの中でお芝居ができる余裕が生活の中で生まれたのかなって思って。結局某劇団公演は流れちゃったんですけど。
(広)え!!
(鵜)結果的に「風、騒グ。」が8年ぶりの舞台復帰になって、やったーっていう。よし !いまだみたいな。ちょうどタイミングっていうね。笑
(ゆ)やっぱりお芝居好きだし。結婚もお仕事も忙しくて離れていたけど、少し生活が落ち着いたからやってみようかなと。タイミングよね。なんか声がかかったので出てもいいのかな~って。扉を再び開けてみました。(笑)
▼Q.皆さんからみて若手の役者はどうですか?
(鵜)いや~もうみんないい子ですよ(笑)。若い人がいないと「演劇とは」っていう話をすることがないから新鮮。話して自分の認識が深まることは結構あります。思ってはいたけど、伝えなきゃって思った瞬間にちゃんとよく考えるみたいな。言わないと伝わらないから、何が分かりにくいか伝わりにくいか、自分の舞台作りについてよく考えるようになってるので、自分にとってもいい経験だなと思います。
(ナ)運動指導とかWSとかやってると、自分ができてないと言えないからちゃんとするようになりました。サボりがちな発声とかね(笑) 真面目に取り組むのでありがたい。
(鵜)それとともに「あー私もそういう年になったんだなー」ってしみじみ感じます。
(ナ)まだまだですよ~鵜飼さんは。
(鵜)そうかな~(笑)自分に何ができるんだろうとか考えることあるもん、私。
(ナ)その年齢の頃、私そんなこと考えてなかったよ。
(鵜)本当~?
(ゆ)まだまだだ大丈夫ですよ。人のために考えなくてもいいですよ~。
▼そもそもなんで3人でさかな公団やってるんですか?
(鵜)「う」がつくから。
(広)え!!
(鵜)だから他の人は入れない。
(ゆ)頭に「う」がつかないと入れない。
(ナ)それ以外の制約がないもん。
(鵜)ただ募集してないですけどね。笑 もともと私が一緒にやってくださいってお願いしたの。
(広)何でですか
(ナ)うがつくから?(笑)
(鵜)やっぱり自分の描こうとしている作品や世界観をよくわかってくれそうだと思ったんでしょうね。
▼鵜飼さんから見て、内田さんと内山さんはどういう印象ですか?
(鵜)人間的に真逆。全ての価値観において。
(広)そんな二人は衝突しないんですか?
(鵜)私がね間を取り持つの。私がいなかったら2人とも仲良くなってないと思う。(笑)
(ナ)お互い嫌いじゃないのよ。(笑)
(鵜)(ゆみさんは)ゆっくり(内山さんは)せっかち。(ゆみさんは) 大雑把 (内山さんは) きっちり。でその間を私が「まあまあまあ」って取り持つ。(笑)
(ゆ)3人とも不器用な部分があって、わかるなーっていうのが長年やっててわかってくる。
(ナ)上手じゃないけれどもこんな気持ちが根っこにあってっていうのがわかってる。だから最初の頃よりやりやすくなってる気がする。
(鵜)3人とも芝居をやる上で大事にしているものがおんなじなんですよ。「ここはこだわりたいね」とか芝居するなら「ここはちゃんとやらないかんやろ」とか、共演者に対しての配慮とか、チームワークでやることの大切さとか人間関係の中で何を大切にするかが一緒なんだと思う。自分についての興味だけじゃなくて、他人のこともどれだけ考えられるかとかね。
(ゆ)血液型もばらばらだよね~。
(鵜)あ!でも皆火星人なんだよね!
(ナ)だからいい時と悪い時のバイオリズムが一緒!!笑
▼Q.鵜飼さんの作品についてどんな風に感じますか?
(ナ)一番好感を持ってるのは、自分が分からないことは書かない。背伸びして、無理やり分かった風をして書いてない。そこが好きかな。観たこともない戦争のこととか、分からない老人の気持ちとかじゃなくて、自分の中で観て消化できたことだけを書いている。そこがいいなーと思ってつきあっている。
(ゆ)ファンタジックな、乙女チックな気持ちがいつもあるのかな。女性的というか。かといって演出は真逆というか、ファンタジーな台本をぶち壊すぐらいの方法をもってくるんだけれども、出来上がった作品はやっぱりすごくファンタジーだなって思う。ファンジアー(!?)だなーって
(鵜)ねー言うことが全然違うでしょ。(笑)
(インタビューその2に続く。。。)