2008年10月30日

9月12日(金)

劇場塾「戯曲を読み解く講座」第2回目です。
今回は脚本を音読することを中心に講座を進めていきますが、その前に岩崎先生より「戯曲とは?」についてのお話がありました。

まず前回受講生のみなさんより「チェーホフは読み難いと思った時期がある」と話がありましたので、まず前回の講義にも登場していたシェイクスピアとの比較から。
「ロミオとジュリエット」を例に出すと、ロミオとジュリエットが出会ってから恋に落ち、互いの誤解によって心中してしまう、と「起承転結」が明確にあり、これにより物語に一定の盛り上がりを見せています。
ところが、チェーホフの戯曲においては、この「起承転結」がシェイクスピアよりもはっきりしないそうです。
いうなれば「起・承・承・承・・・結」と言うような感じになります。
チェーホフは登場人物の日常生活をクローズアップして描いているため、決闘とか殺人など大きい事件が舞台上で起こらないように書いているそうです。
このため、話のリズムに乗り切れずに読み進め難いというのがあるようです。
画像:9月12日(金)講座風景
チェーホフ以外でも戯曲と言うのはそもそも読み難く、それについてのお話もしていただけました。
戯曲とは文学の一部になります。文学とは「小説・詩(俳句、短歌)・エッセイ随筆・ルポルタージュ・評論・戯曲」に分けられた、「文字に表される作者の表現」のことを言います。
戯曲も文学になりますが、同時に上演のために書かれた二次的な読み物でもあります。
小説を例にとりますと、よく用いられる一人称は“僕”“私”と話の進行役が登場し、彼らの視点で物語が進むことで登場人物の心理描写や行動背景なども“僕”“私”の視点であらわされます。
同じ様に使われる三人称は作者が“カメラ=神”となって物語を進めることで、せりふや行動でもさまざまな形での背景描写が可能になっています。
これに対して戯曲はセリフのみで構成され、行動にしてもト書きで書かれているだけで背景についての説明がありません。
なぜこの行動に出たか?はセリフの中で提示されない限り読者には説明がありません。
これはあくまで戯曲が読者のためではなく上演を想定してかかれているからで、読者と書き手との間で関係が完結していないことになります。
戯曲とは俳優や舞台など“動かしたいもの”について書かれたものです。
先生は同じようなものとして、家電などの「取扱説明書」を挙げられました。
“うごかしたいもの”をどの様に動かしたいかの説明だけ書かれた文章は、それだけ読み進めるのはかなりつらいものです。
このため、戯曲は読み難くなっているとのお話でした。
その分、動かし方については細かく書かれており、チェーホフも人物描写に関してはとても書き込んでいるということでした。

この後はそれぞれのテキストを使ってのリーディングと先生の解説です。
前回は序盤の劇中劇が始まる所までだったので続きはそこから始まります。ここで先ほどの人物描写についての補則が先生からありました。劇中劇は一幕が始まってすぐ始まりますが、その短い間に主要登場人物の人物描写と関係性がほぼ全て説明されています。
物語の導入部としてはもたもたすると話しに入り難いのですが、短い間に説明することは技術が要るとのことです。
また会話や気持ちがずれていくさまがこの「かもめ」の中にはよく出てきます。
これはチェーホフの一つの特長でもあり、一つの会話でもだんだんずれていくさまや、人間関係がずれていく様子が書かれています。
メドベージェンコは常に自分の事しか話しておらず、シャムラーエフは周りの話題とはまったく無関係な事しか話していません。
アルカージナは湖の昔話から急に息子であるトレープレフを心配しだしたり、すぐに自分の話をしだしたりと統一した話し方をしていません。
シャムラーエフにとってソーリンは主であるはずなのに、会話を見る限り上司部下の関係も崩れています。
せっかく芝居をほめてくれるドールンが現れても、トレープレフはニーナが家に戻った事が気になってドールンの話は聞いていません。
こうやってずれていく様もチェーホフは「喜劇」として捉えていたようです。
ここで先生より質問がありました。シャムラーエフはまったく無駄な事しかしていないのですが、日本の上演史などを見てもコメディアンが演じている場合があると言われています。そのことから「今の芸人でシャムラーエフが演じるとしたら誰が良いか」と尋ねられました。
皆さん、すぐには思いつかない人が多かったようですが、その中でも数人の方が「劇団ひとり」さんを上げられていました。
画像:9月12日(金)講座風景
チェーホフは「静」の芝居と言われていますがこれはあくまでスタイルが「静」なだけで感情はとてもよくぶつかり合っています、注釈には感情の高ぶりに対しての指示がとても多く見られます。一幕のトレープレフが劇中劇を終わらせるところや、三幕のトレープレフとアルカージナとの親子喧嘩、二幕のシャムラーエフ・アルカージナ・ソーリンの言い争いになると、前後の脈絡はなくいきなり怒り出したり、泣き出したりと感情をとても強く出しています。
この他にも三幕のアルカージナとソーリンが言い争いになる際の「金遣いの荒い妹と兄」の構図はチェーホフの定番で同じ構図が「桜の園」にも出てきます。

言葉の二重性という話も先生からしていただきました。
たとえば二幕初めのシーンでアルカージナが自分の半分ほども年若いマーシャと自分とどちらか若いか(!)と医師のドールンに訊くシーン。
ドールンはアルカージナの方が若いと答えてますが、言葉の二重性で本心からそう考えているのかはセリフからだけだとわかりません。
このシーンはできるだけ年齢差のある女優たちですると面白い、と先生は言われていました。
同じような年齢差の女優さんでは、言葉の二重性が際立たないからです。
この後リーディングは三幕まで行い、四幕は先生の説明で進めました。ここで先生より皆さんに「物語を読むときには、人は自分を登場人物に託して読む」ということですが、「自分で思う自分が似ている“かもめ”の登場人物」と「人から思われていそうな“かもめ”の登場人物」を一人ずつ上げて下さいと質問がありました。
皆さんそれぞれ登場人物を挙げられていました。皆さん自分が思う登場人物と人が思う登場人物が一致されている方はいらっしゃらなかったようでした。

チェーホフは読む年代によっても随分印象が変わる作品でもあります。
たくさんの恋の話が出てきたときに、「人はいくつまで恋愛できるか?」と先生から問いがありました。
人によってさまざまな回答が出たのですが、先生は「年齢を重ねた人の方がより多くの事をこの作品から読み取る事ができるように思う」と話していました。
画像:9月12日(金)講座風景
チェーホフは44歳で亡くなっています、晩年にも脚本を1本用意していたようで彼が後10年生きていたらどういった形の戯曲を書いただろうかと思います。
チェーホフは人を中心とした演劇スタイルの原点として近代演劇から現代演劇を展望して一つの金字塔を打ち立てた作家です。
今後も「かもめ」だけでなく、他の彼の戯曲や小説を読み込んで今後皆さんが演劇に親しんでいくための力にしてほしいと話をされて今回の講座の結びとされました。

この後は次回の講座で使うテキストのお知らせがあり、今回の講座は終了いたしました。
次回は永山智行先生による「岸田國士の短編戯曲」についてです。
しかし、テキストは4篇ありそのうち2篇は岸田國士氏の戯曲ではありません。
画像:9月12日(金)講座風景
どういう講座になるのでしょうか、今から楽しみです。

Posted by mt_master at 2008年10月30日 16:36