2:さかな公団のLOVE色々 

2006年05月03日

第10話 愛ってなに? (最終回)

愛ってなんなのでしょうか。
このブログではいろんな人や物に対する私なりの思いを語ってみました。

愛のかたちや、何が愛なのかなんて、人によって違うのだろうし、愛の定義をひとくくりにしてしまうのもなんか違うと思うし、いまだによくわかりません。

ただ、見返りを期待することなく、他人を思いやって何かをしてあげることができるのなら、それは、愛と呼んでもいいんじゃないか、と思います。
愛するということは大変なことです。愛というのは優しくすることだけではないからです。
愛するために、何かを耐え忍んだり、ひたすら待ったり、ときには相手の為に自分の何かを犠牲にすることだってあります。
自分の好きなことばかりやってきた私なんかは、本当に自己中心的に生きてきたし、拙いながらも愛するということはなかなかできることではない、と思うのです。

だけど、自分の生活が本当に豊かで幸せなものだと感じることができるのは、他人からの愛情を感じること以上に、自分が他人をどれだけ愛することができたかということに掛かっているのだと最近思います。
愛はたぶん世の中を循環します。発した愛はたぶん、ちょっとだけ何かを幸せにします。
そのちょっとの積み重ねがもしかしたら平和につながっているのかもしれません。

そう信じて毎日を生きていくことだできたらいい、そう思います。

(了)

Posted by 鵜飼秋子 at 21:58

2006年04月26日

第9話 日常への愛

幸せだなと思う瞬間、てどんな時ですか?
私が幸せだと思うときは、もの凄く忙しい毎日のなかで与えられた一日だけの休日とか。
たまに食べるおいしい店の料理とか。

それ自体が幸せなものではないかもしれないけど、たまにホッとするようなことを感じることができるときってありますよね。
そういうとき、本当に生きててよかったなあと思うのです。

なんにせよ、何かを感じることができるというのは幸せなことだと思います。
人の思いやりとか、この人のことが本当に好きだなあとか。
人やモノや、そういったもろもろのことを思いやることが愛なのだとしたら、そいういう愛を感じることができる、日常のことを幸せと呼ぶのかもしれませんね。

Posted by 鵜飼秋子 at 21:56

2006年04月19日

第8話 友人への愛

その友人は高校のときの同級生で、私が仲良くしていた女の子のグループのうちの一人だった。
友人は、人の悪口なんて滅多にいわなかったし、優しくてたまにとぼけた人柄が周りにいる人を和ませた。
友人は去年死んだ。電車に飛び込んで自殺した。
あまりに突然であっけなくて何も思うことができなかった。

葬式に出席したけど、そこでも悲しみより先に「なぜ死んだんだろう」という怒りのほうが先に立ってしまって泣いている友達に悪いような気がして早々と帰った。

今でも思う。なぜ死んだ?
自殺した日の直前に会った友達もいたけど、皆、「気付いてあげられなかった」と言った。
死んでしまったのだから、本当の原因なんてなにもわからない。
それに、もしかしたら本人だって本当の原因なんてわからないかもしれない。
それほどに、死の影というのは唐突にやってくるものなのかもしれない。

それにしても自分で命を絶つというのはどういうことなのだろう。
最後に友人の見た光景はなんだったのだろう。
1年ちょっと経った今でも、その友人に対して思う私の気持ちは疑問だらけだ。
それでも変わらずに思うことは、どんな理由があろうとも死なないで欲しかった。
それだけだ。

「明日のマコ」はそんな友人が最後に見た光景を描いた話。
本当のところは本人に聞いてみなくちゃわからないけど、ただ、人間はどんなことがあっても「生」にすがっていて欲しい、そういう話。

稽古も最高潮に伸びざかりの時期。
お話は確かに少し暗いけど、楽しいところもありますから安心してください。
2日後をお楽しみに。是非、足をお運びくださいませ。

Posted by 鵜飼秋子 at 10:16

2006年04月12日

第7話 カジュマルへの愛

さあ、公演日が迫り来る今日この頃ですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
私は、うん、いやあ、とても忙しいですね。

そこでちょっと和む植物のお話。
カジュマルという樹をご存知でしょうか。
熱帯アジアに多く分布する、ということですが日本では沖縄を代表する樹です。
幹から根っこが伸びて土に潜ってそれが支柱になる、という風変わりな樹でもあります。

最近、買いました。カジュマル。
部屋の中にグリーンが無かったので欲しいなと思って買いました。
うちのカジュマル君は、人間の下半身を想像させる格好をしています。
沖縄ではキジムナー(精霊)が宿る樹として伝えられているそうですが、確かに、何か住んでそう、というかその下半身から何か産まれそうなので育ててみることにしました。

今のところ妖精の声が聞こえてきたことはありませんが、元気にすくすくと葉を茂らせています。
ある日葉っぱが全て太陽の方向を向いているのに気がついたときなんだか生きてる実感みたいなのがあって、非常に嬉しかったです。

生き物を育てるのは苦手です。愛情を初めと変わらず注ぎ続けることができるかどうか心配なので。
動物は絶対に飼わないし、植物すら敬遠してきました。
しかし、カジュマル君は頑張ってみようと思います。
植物はいい音楽や、いい言葉を聞かせてやるときれいな花を咲かせたり、育ちがよくなるという話を聞いたことがありますが本当でしょうかね。だとしたら人間と変わらないですね。
育てる=愛情を注ぐ、なのかな。
もっともっと葉っぱが茂るよう、愛情を注いでみよう。

↓左手でなんか隠してるのかい?の図
カジュマル:左手でなんか隠してるのかい?の図

Posted by 鵜飼秋子 at 12:31 | コメント (0)

2006年04月05日

第六話 母への愛

自分は結構なマザコンだと思う。

幼い頃から、悩み事や愚痴の大半は母に言い続けてきたし、今でも困ったなあという時は頼りにしている。
いつだって母は私が寄りかかれる大きな木のような存在だったのだ。
しかし、最近その大樹が意外に、弱いことを知った。
腸に穴が空いたのでお腹を切って手術をした。

急なことだったので、びっくりした。
その日はなぜか物をよく落とし、壊す日だった。
朝は洗濯用洗剤を床にぶちまけ、夜はルームライトを、そしてガラス皿をレンジで温めてすぎて割った。
父からの着信に気がついたのは夜中だった。
夕方ごろお腹が痛いといって病院に行くと、すぐに切ったほうがいいということで緊急に手術した、とのことだ。
父の「大手術だった」という言葉に事の重大さと、父のその日の疲労感を感じた。

次の日、病院にいってみると本当に具合が悪そうだ。
それでも無理してなんでもないような顔をしようとしていた。
子供を産んだことも育てたこともないから詳しいことはよくわからないけど、
「母」っていうのは自然になれるんじゃなくて、努力してなるものなんだとその時思った。
父には少し甘えられるようだったので安心した。

今ではもうすっかり回復して、切った手術の跡をしきりに私に見せたがるが、あんなに病人っぽい顔をした母を見るのは、もういい。

素直に、親孝行しようと思う、今日このごろ。

Posted by 鵜飼秋子 at 12:43 | コメント (0)

2006年03月29日

第五話 父への愛

父は会社員でしたが定年退職して最近は家にいます。
想像では、定年退職した後のサラリーマンって抜け殻のようになってしまうのかと思っていましたが、心配の甲斐なく、彼は自分の趣味を謳歌しているようです。

父の趣味は写真と音楽。
私には写真が好き、というよりは写真を撮りに出掛けるのが好きなように見えます。
音楽も、どちらかというとラジオの音楽番組を録音するのが好きなように見えます。

父が会社から帰ってくると、まずその日録音したクラシックかジャズかたまに不思議な現代音楽が部屋に流れます。
就寝時間になっても爆音で流しているので、母にしかられます。その後、録音した曲を自分のリストに登録します。
登録された曲を再び耳にすることは無いように思います。

休みの日は写真を撮りに車で出掛けます。日帰りできない場所の場合は「道の駅」などに停車して寝ているようですが、年齢も年齢ですので、さすがに母に「やめてね」と釘を刺されていました。
家に帰ってくると、紀行文のようなものを書いてそれもまたリスト化します。

結局は自分の足跡を残しておくのが好きなのですね。
ちょっと、娘ながらに変わった人だと思います。

小言をよくいいますが、本気で怒ったところはあまり見たことがありません。
母にはよく叱られるときにビンタされたましたが、父は手をあげません。
しかし、父に一度叩かれたときは、今まで生きてきた中で一番いたいビンタだったと記憶しています。

正直者です。ミスは怒りませんが、ズルイことは許さないようです。
今でもよく叱られますが、もう少し親孝行してやらないとな、と最近思います。

Posted by 鵜飼秋子 at 13:19 | コメント (0)

2006年03月22日

第四話 フィッシュマンズへの愛

皆さんフィッシュマンズというバンドをご存知でしょうか?
フィッシュマンズは日本のバンドです。
90年代、ミュージシャンを「渋谷系」(UAさんとかね)という言葉でカテゴライズすることがありましたが、敢えて言うならフィッシュマンズは当時、この「渋谷系」と言われたバンドです。

好きなんですね〜。フィッシュマンズ。愛してる。

「さかな公団」という名前の「さかな」部分は実はフィッシュマンズからきています。(「公団」はマンションね。たくさん魚が住んでそうでしょ。)あまりに好きなのでつけてしまいました。(なんだ単純と、思ったろ。そう単純です。)

どこが好きなのかと、音楽性はさることながら、話し出したらきりがありませんけどね。

まず佐藤伸治(vo,&gu,)さんがとても好き。
残念ながら亡くなりましたが、もうこの人なしにフィッシュマンズは語れません。
フィッシュマンズって時期によって違いますけど、最終的にフィッシュマンズのメンバーは3人なんです。
それも、ボーカルと、ドラム(茂木欣一)とベース(柏原譲)。リズム隊ばっかり。だから音楽がリズム中心につくられています。
そして佐藤は詩人的センスに長けている人なので詩がとても良い。ふわふわと孤独感が漂った、だけど温かみのある詩です。
ライブ体力もあるので、ライブ録音盤は凄いです。

興味の無い方には全くどうでもいいお話かもしれませんが、お付き合いくださいありがとうございます。
前回のNGT、飛ぶ劇場オフシアターact,3『夕暮れスーパー』で聞き覚えのある方もいらっしゃるかもしれませんね。

昨年、北海道で行われたライジングサンロックフェスティバルは佐藤を亡くしてから、初のライブ参加でした。
フィッシュマンズを愛するミュージシャン達がボーカルを務めていました。
全国から集まったコアなフィッシュマンズファンがそりゃあもう、おいおい泣いていました。
最近、活動再開そんなフィッシュマンズ、映画も公開されるそうな。

しかし、こんなに根強く人々に愛されるっていうのは本当にうらやましいことです。
フィッシュマンズに妥協はありません。目標、フィッシュマンズです。

Posted by 鵜飼秋子 at 17:06

2006年03月08日

第三話 芝居への愛

なんで、好きなんでしょうかね。お芝居。
本当は表現だったら芝居じゃなくても絵でも文でもなんでも良かったのかもしれない。

だって、芝居ってひとつ作るだけでも大変ですよね。
稽古期間は最低、1ヶ月は必要だから、気分が乗ったのでちょろっと風呂上りに作りました、なんてあり得ない。
それにたくさんの人手が必要です(たいてい)。
役者がいて、演出家がいて、作家がいて、スタッフがいて…やっと出来ます。
せっかく作っても後には残らないし。
なんて、効率の悪い表現なんでしょう。

ただ、こんなに続けて、なお好きでいられるのにもし理由があるのだとしたら、それはやっぱり一人では作れないから、かもしれません。人と関わらないと作れない、それがいいのかもしれません。

ごめんなさい、ちょっと上手く言葉にできません。
その代わりに、と言ってはなんですが先日、猛烈に芝居制作中に感じた愛のエピソードをひとつ。

飛ぶ劇場が、昨年十月から今年三月の半年間にわたって上演してきた『IRON』が先週日曜、東京池袋にて幕を閉じました。
それぞれがそれぞれに、いろんな想いを抱いてきた『IRON』でしたが、ラストステージのラストシーンで花びらが舞いました。
通常のラストに花びらは舞いません。スタッフさんがみんなに内緒で仕込んで降らせたのでした。
作品への愛情がひたすら伝わる花びらに、私の心も猛烈に満たされました。

いろんな人から愛情を吸って大きくなるのが芝居だとしたら、どんなに効率が悪くても、どんなに儚くても、こんなに素敵なことはない。

Posted by 鵜飼秋子 at 20:58 | コメント (0)

2006年03月01日

第二話 姉妹の愛

私には妹がいます。3歳離れた妹です。去年、東京で就職して今は一人暮らしをしています。
私たちは顔が結構似ています。

私も妹も小さい頃は毎日喧嘩をしていました。
妹は私に比べると口数が多くないので、一見大人しそうにみえますが、そうではありません。
母が「もう勝手にしなさい、お母さん知らないからね」と怒るときによく言っていましたが、この言葉は、いざとなると臆病になってしまう私には有効ですが、妹には無効です。
妹は「勝手にしなさい」と言われると、許されたのだと勘違いして本当に勝手にしてしまうからです。
こんな肝の据わった女ではありますが、妹が怒られると、私がかばってやるこもたまにありました。

考えてみるとあまり性格は似ていないような気がしますが、ただそう私たちが感じるのは姉妹の宿命であるようにも思います。

幼い頃、私はいつもロングヘアで暖色系の服が似合うと言われ、妹はショートカットで寒色系の服が似合うと言われていました。

周囲は無意識に姉妹を区別します。

こっちは優しいとか、こっちは勉強がよく出来るだとか、こっちは美人だとか。
言われた本人はなんとなくそんなものかと、それならいっそ姉妹の差別化を図ってやろうとその区別を信じてより自分らしい方向へと努力をします。
その証拠に私は昔服を買うとき、青とピンクがあったらピンクを迷わず選んでいました。

しかし、その区別は逆にちょっとしたコンプレックスにもなっています。

先日、福袋に入っていた帽子を試しに被っていた妹に、母が「少年みたいですごく似合う」と褒めたら
妹はむくれて「もうかぶらん」と言いました。そして、現在、妹の髪は長く、私の一番好きな色は青です。
つまり、昔、姉妹が親から受けていた評価とは全く逆の結果になっています。

不思議です。ですが、これぞ姉妹。

姉妹は、お互いに相手と自分とを常に比較し、その比較にちょっとした優越感とコンプレックスをいつだって抱えています。
でもそれは自分たちに共通する部分が多いからなのであって、いつだって「あれさあ」とか「これさあ」だけで会話ができるほど、類似性を秘めた説明のいらない関係なのです。

普段はなかなか有り難味がわからない存在ではありますが、妹が居て本当に良かったと思える瞬間はバラエティ番組を一緒に見て笑っている時だと、私は思います。

Posted by 鵜飼秋子 at 11:00 | コメント (0)

2006年02月22日

第一話 「愛」とは。

今回のNGT06では「愛と平和」がテーマということですが、一口に「愛と平和」と言ってもあまりにスケールが大きすぎるというか、正直ピンとこないというのが私の素直な感想です。

愛ってなに?平和ってなに?

取り敢えず、愛と平和は別物ですよね。
しかし、「愛と平和」の両者がひとつの決まり文句のように並んで考えられるようになったのは、きっとどこかでつながっているのでしょう。

私には、二ついっぺんには考えるのは少し欲張りな気がするので、ここ(blog)ではこんな機会でもなけりゃまじめに考えることもないであろう「愛」に絞って考えてみます。


では、あらためて。
「愛」ってなんだろう?

はっきりと答えることができません。
では「愛」という言葉から連想するものは?

ハートの形、温かい、柔らかい、優しい、胸の中にありそう、ピンク色、嬉しいもの・・等々。
イメージは湧きますがその定義はよくわかりません。

辞書を引いてみましょう。

「愛」とは、

 1 親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。
  また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち。
  「―を注ぐ」

 2 異性をいとしいと思う心。
  男女間の、相手を慕う情。恋。
  「―が芽生える」

 3 ある物事を好み、大切に思う気持ち。
  「芸術に対する―」

 4 個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心。
  「人類への―」

  (「大辞泉」より)

主なものを抜粋してみました。愛にもいろいろあるようですね。

全体を大きく見渡して言うなら、「愛」はどうやら、「心」であったり「気持ち」であったりと、人の持つ感情のようです。
そして、相手や対象をいつくしんだり、大切に思ったりすることのようです。
自分ひとりだけではきっと持つことができない感情のようです。

人と人がいて「愛」が生まれる。
人のことを考えて優しい気持ちになったりすると胸がふんわりしたり、きゅうっとしたりする。
昔の人はそんな体感から「愛」の形を心臓の「ハート」に置き換えたのでしょうか。          

普段、あたりまえのように使っている「愛」という言葉ですが、果たして自分が生活の中でどのくらい「愛」を持つことができているのか。
ひょっとすると、自分の浅はかさと未熟さを露呈することになりかねない問いですが、26歳、女、鵜飼秋子は自分の周りの「愛」の色々を考えてみたいと思います。

次回は「姉妹の愛」

Posted by 鵜飼秋子 at 11:05