2005年09月09日

[演劇人の為のアーツマネージメント講座 ―How to 「演劇制作」―]

第6回 戯曲を読む (9月8日[木])

今回は、「戯曲講座」で受講生が書いた戯曲9本を宿題として事前に読み、シアターラボ()を念頭において自分だったら上演作としてどれを選ぶか考えてみるという内容でした。

講師曰く「演劇制作の講座なら、戯曲を読むということは外せないと思うのだけど、マネージメントの講座では見かけたことがない。この講座では、制作の立場として「どういう視点で読んだらいいのか」を考えてみようと思う」とのこと。
それを踏まえ、「制作が本を読むにあたって気にするべきことは何か」受講生に聞いていきました。

受講生は、

・予算
・テーマ(何を表現したいのか、伝えたいのか)
・観て面白いか、やってみておもしろいか

と答え、さらに講師の新里氏は、
「予算は演出にもよる。書かれている通りに装置を作っていくのか、役の人数は何人か、時代設定(架空の設定なら演出次第だが、史実にできるだけ忠実にとなると衣裳や装置をリアルにするため費用がかかる可能性がある。)はどうか、場面の数、物語の時間(何時間、何十年が経過するかによって、衣裳の着替えが多くなるとか、舞台上の物と人の変化をわかるように造型する費用がかかる可能性がある。)などが影響してくる。」
とコメント。
そして戯曲を読むにあたって考えるべきことは
・劇場(上演する場所)をいつも思い浮かべながら読む
・ただおもしろいかではなく、“演劇として”おもしろいかどうか=劇的かどうか
だそうです。
「劇的」とはどういうことかは、ひとまず置いておいて、読んできた戯曲を「好き嫌いで判断するならどれか?」をホワイトボードに書き出していきました。
判断が甘めの人、厳しい人などそれぞれで、好き嫌いの基準も「読み進められたかどうか/読みやすいかどうか」「観たいかどうか」「いい台詞があるかどうか」など様々でした。
次に、「どれをいい作品と思うか」を考えました。
新里氏によれば、「基準としては、好き嫌いとは別で、「観客に観せられるか」「創り手たちがおもしろがれるか」などになってくるんじゃないか」とのこと。
また、
・劇場に舞台を観に来るのではなく、本を読みに来る=ストーリーにとらわれてしまうお客さんもいる。(ロングランの作品を観てみれば分かるように)舞台として面白くなければならない。
・戯曲は作家の書いたものだけど、それにいろんな人が手をかけて舞台の作品として成り立つので、お話としておもしろくても「誰がやってもそうなるよね」という作品は舞台としてはどうだろうか。戯曲が、舞台として立ち上げる努力をさせてくれる本かどうか、稽古に立ち会う経験が増えていくと段々見えてくることもある。
・戯曲の中に素敵な言葉を見つけるというのもありえる。古典と呼ばれる作品には、やはりいい台詞(=読んで「いい」のではなく、「言って」いい)がある。
・(演劇の制作なら)戯曲は読みなれてほしい。演出家は制作者が戯曲を読める人かどうか計ってくるし、創り手としての演出家を制作側が計る上でも戯曲を読めていないと話にならない。また、観客は席を立てないことを考えて、がんばってやってほしいのは一気に読むということ。
とも言っていました。
その後、受講生、講師交えて、戯曲講座からの戯曲群に関しての意見を出し合いました。
「独特の台詞のやりとりが、舞台になったときには1時間もたないかもしれない。テレビ向きなのではないか」
「(役者をやっている自分としては)ト書きが書きすぎている」
「書かれている場所を舞台でどう組むのか、非常に難しいが、だからこそどうやれるのか気になる」
「設定としては面白いけど、舞台としてはどうか?映像向きなんじゃないか」
「いい台詞があって、お客さんが受け取ったときに自分のことに置き換えることができる=広がる要素がある」
などの意見が出ました。
そして、先ほど出てきた「劇的/演劇的とはどういうことか?」に戻り、受講生が思う劇的について発言しました。
・舞台の上の事件を観客が同じ空間・時間で共有する
・人間を描いている
・虚構性、日常的ではない出来事を描いている
・作者が物語の中にいる(いないと映像的になる)
などです。
それに加えて新里氏は、「社会に対する批評性」ということを挙げました。
例えば、戯曲講座の作品の一つは、狭い部屋を舞台にしているけども台詞や人物の振る舞いに同時代の感覚が感じられるとのこと。
新里氏の考える「演劇的」とは、下図のように、「観客の目の前で展開している舞台が水面上に見える氷山の一角<A>とすると、観客が想像できる様々なこと、つまり水面下の氷の大きさ<B>が、より深く大きい作品ほど演劇的といえるのではないか」ということです。

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ストーリーを追う見方はAのみしか見ないので、劇場を去るときに持ち帰るものが少なく、だから同じ作品をまた観に来ようと思わない。Bの部分は、作品の良さと観客の作品に対しての積極性が出会った時にはどんどん大きくなるから「また観たい」という気になる。最終的に編集によって監督の視点にまとめられる映像作品と比べて、舞台は空間を観客も共有しているのでより想像が広がる可能性を持っているそうです。
・社会への批評性

・見えないものを見せる
という可能性があるかないかがより「演劇的」かどうかのポイントのようです。
そういう意味では、先日の北九州芸術劇場のダンスラボ「未完成、だけど運命、そして新世界。」は、とらえどころがないと感じる人もいましたが、12人のダンサーのダンスそれぞれから持ち帰るものがあり、演劇的なダンスといえるのではないかとのこと。
さらに、制作は、「演劇って何?」と訊かれて答えられる言葉を持つといいそうです。
例えば「演劇はむずかしい。どう見ればいいかが分からない」と言われてどう答えるか?という質問が受講生に投げられましたが、
・(総合芸術だから)好きに観ればいいよ
・何が言いたいのかを見つけるようにしたらいいよ
・正解はないです
・当たりハズレはあるからね
・退屈したら台詞のない人を観てるといいよ
との回答が出ました。
新里氏はこの質問に
 (演劇に限らず、芸術全般に言えることですが、)演劇を観るのは自分を見つめる作業ですと答えるそうです。
「創った人が何を言いたいのかを気にするのではなく、目の前の舞台を観ている自分の頭に浮かぶことや、自分の気持ちがどう動くかを感じているとその舞台の本質に近づく観方がきる」とも。そうすれば「むずかしい」とか「わからない」ということはないはずだそうです。
ただ、制作は自分がどう観るかだけでなく、客席の後ろから観たりして、その舞台に対する客席の反応を感じておくことも大事だということです。一回一回の舞台に対する客席からの最後の拍手の起こり方でその日の舞台の出来が判断できたりするそうです。
今回のまとめとしては、「演劇の制作としては、戯曲を読むのは当たり前の作業だし、演劇として成立するのかどうかを考えながら読みましょう。それにはまず自分なりでもいいので「演劇とはこういうもの」と人に伝えられる言葉を持っていた方がよいですよ」ということですね。


*シアターラボ:北九州芸術劇場がオープン前のプレ事業から続けている演劇製作の企画。戯曲講座で書かれた優秀戯曲を実際に上演するというもの。上演されたときにどうなるのかということを作家に学んでもらう狙いがある。1年目の2001年は選ばれた2本作品を戯曲講座講師の鈴江氏と地元演劇人の大塚恵美子氏がそれぞれ1本を演出、2002年は西田シャトナー氏が選ばれた2作品を一連の作品として演出。2003年は1作品をペーター・ゲスナー氏が演出しました。そして昨年からはシアターラボの上演作品を決める前にリーディング公演を行い、観客の意見も取り入れながら上演作品を決めている。ちなみに今年のシアターラボの演出は文学座の新進気鋭の演出家、松本祐子氏で、リーディング公演は10月22日(土)に行う。

Posted by 北九州芸術劇場(K) at 14:59